2015年2月1日日曜日

book298 - 300 日本語話者らしさ 英語話者らしさ

日本語話者らしい感性・・・ってなに?
英語話者らしい感性・・・ってなに?





【概要】                    

book298 『日本語と英語 その違いを楽しむ』 (2012 ) 片岡 義男

僕はこんなことを考え、生きてきた。主体の思考とアクション(動詞)に奉仕する言葉である英語。一方、世界をいつの間にかそのように出来上がっている「状態」として捉え、常に名詞的である日本語。その二つの言葉の間に身を横たえ、考え、楽しみ、書き続けてきた作家が、長年カードに書きとめてきたきわめて日常的で平凡な用例などをもとにして、その根源的な差異を浮き彫りにしていく画期的書き下ろし。

book299 『英語の感覚・日本語の感覚 <ことばの意味>のしくみ』 (2006 ) 池上 嘉彦

John showed Mary a photo.とJohn showed a photo to Mary.この2つの意味の差はどこにあるのか?一見同じような英文でも、場面や文脈によってニュアンスに差が出る。認知言語学の視点から、日本語との比較をふまえ、文法書や辞書だけでは決してわからない、英語の豊かな意味の世界に分け入る。英語らしさ・日本語らしさといった、言語に固有の感覚を明らかにしながら、ダイナミックに変化することばの本質を鮮やかに示す。


book300 『英語の発想・日本語の発想』 (1992 ) 外山 滋比古

英語の構造や語法、文体などにみられる、日本人の気づいていない発想上の特色を、日本語と対照させながら明らかにした好エッセー。

【読むきっかけ&目的&感想】               

某ゲーム交流のため2年ほど前から英語掲示板を使うようになり、苦手な英語でやりとりをするようになった。そうこうするうちに、相手の個性に加えて英語の感性にも興味を持つようになったので、それっぽい読みものを探して読んでみた。

さくら好み ★★★


話す言語の特性が思考の順序に影響する、、、って面白いことだなぁと思った。

【備忘録】                                        

◆ book298 『日本語と英語 その違いを楽しむ』 (2012 )
片岡 義男(かたおか よしお、1939年3月20日 - )は、日本の小説家、エッセイスト、写真家、翻訳家、評論家である。 
東京生まれ。幼少期を東京で過ごし、戦時疎開で山口県の岩国に移り、終戦を迎える(広島に投下された原爆のキノコ雲を目撃、記憶している)。10歳のとき広島県の呉に移り、瀬戸内で過ごしたあと東京に戻る(13歳)[1]。のち都立千歳高校を経て、早稲田大学法学部を卒業。 
祖父の片岡仁吉は山口県の周防大島出身で、ハワイに移民した人物。父の定一は日系二世で、片岡義男自身も少年期にハワイに在住し、当地で教育を受けた経験がある。
・ 「そういうことでいいですか」

そういうことでいいですか」 Are we ok on that?

「みなさんの応援のおかげです」 Your support helps me get motivated.
「自分にとっていちばん大事なこと」 things that matter most
「まさか」 I must have heard you wrong. (俺の聞き間違いだよね)
「どちら様でしょうか」 Who am I speaking with, please?

· Put it in a memo. 

「メモにしといて」 アメリカの事情ないしは文脈のなかでは、メモは何人ものあいだを行き交うものだ。 Put it in a memo. という鄭計的な言い方は、字面では「メモにしといて」という意味だが、会社のような組織のなかでは、「簡潔に書いて関係者のあいだにまわしてくれ」という意味になる。


· Who cares?

"Who cares?" 「知ったこっちゃないよ」という意味の決まり文句だ。直訳すると、「誰がそんなことを気にしたりするのか、誰もしないよ」というほどの意味になる。大きく範囲を広げた結果としての who であり、この範囲を限度いっぱいに狭めると、 who は I になり、 I の問題としておなじことを言うなら、 Do I care? となる。「知ったことか」という意味だ。 care などするもんか、と I の問題としてとらえたのちに、それを質問形にして相手に投げ返す。


· ちょっとお時間をいただけますか

「ちょっとお時間をいただけますか」と刑事は言った。なにかの小説のなかにこんな場面があり、刑事が男に言う英語のひと言を僕はカードに書きとめておいた。 I wonder if it would be possible to take a moment or two of your time, sir. という言い方だった。


· the book to keep me awake by

the book to keep me awake by という言いかたは、英語としてごく普通のものだ。「私を起きたままに保つ本」とまず直訳しようか。「いったん読み始めたなら眠らせてもらえなくなる本」という意味だ。いちばん最後にあるこの小さな by のひと言の果たす役割は大きい。まさにこれは英語らしさだ。日本語にこのような例はない。「私を起きたままに保つその本」とは、本という物体ではなく、読んでいくその本の内容だ。しかし内容が単独でそのような効果を発揮することはないし、読んだとしてもそのことが私になんらかの心理的な影響をあたえないことには「眠らせてくれない」というような事態は発生しない。「私を眠らせてくれないほどに私に心理的な影響をおよぼすその本」というふうに意味をひとまとめに完結させる機能を果たすのが、 by のひと言だ。このひと言がおしまいにあることによって、以上のような内容が明確に伝わる。伝わる内容はまだ他にもある。現在形で発話されているからには、「私を眠らせない」という状態はまだ発生していない。「私が眠れなくなるのはこの本を読んでからのことだ」という意味も by のひと言によって伝わる。


· something to remember you by

something to remember you by という定型的な言いかたは、このような文脈での例文として最適だ。「私にとってあなたを記憶しておくよすがになるなにか」という意味だ。私があなたを記憶しておくことになるのは、なんらかのよすがによってだから、「よって」のひと言が by にあたる。文法という論理を無視することは誰にも出来ない。そして by のひと言は、英語らしさそのものとして、いちばん最後というこの位置にある。


· I can't say. 

一般的な状況の中に置いた I can't say. は「さあわかりません」というほどの意味だ。


· whether update

「最新の気象情報」という日本語をそのまま英語に移しかえても、それは立派な英語だし意味は十分に伝わる。それよりも weather update と言ったほうが、最新の気象情報ははるかに動的な立体感を獲得する。ちょっと前にくらべると update された気象ニュース、いままさに update されつつある気象ニュース、さらには、これからも update され続ける気象ニュース、という動きのなかに気象ニュースが置かれることによって、最新の情報という言葉が立体感を持つ。もちろん、 update とはいえ、三時間、四時間前のものであることは日常的に当然だとしても、 whether update という言いかたのなかにある動きは、「最新の気象情報」という言いかたぜんたいにはりついている静止感からは、思い切り遠い。


· お昼をなににしようか考えてたとこです

「お昼をなににしようか考えてたとこです」、、、 「お昼を何にするか」という日本語を英語にすると、 what to do for lunch でいい。「考えていたとこです」という言いかたは日本語としてはなんの問題もないはずだが、しかしこの場合の「考える」とは、なににすべきかきめようとしていた、という意味だから、英語だとそのとおりに言わないと、妙な言いかたになる。主語はもちろん I で時制は過去になる。 I was just deciding what to do for lunch. 日本語では、「考えてた」という曖昧な広さを内蔵する万能の言葉を使うことになんの無理もないが、いまも書いたとおり、「考えてた」とは「なににしようかきめようとしていた」という意味だから、そのとおりに言えるように言葉をつなげるのが英語だ。さっきから考えていていまも考えているのだから、それがなぜ過去の時制で表現されるのかという疑問には、たったいまのことでも過去ととらえる習性、とでも言っておこうか。時制は過去にしておいた方が、論理の道筋はきれいにとおる、という言いかたをしてもいい。


· I don't notice a difference. 

I don't notice a difference. 「違いや差があるとは思えません」というような意味だ。 notice の使い方がやや面白い。 see がもっとも一般的だとすると、 notice や find を使うと、 see の場合よりは注意して細かく見ている、という語感になる。日本語にするなら、「違いは感じません」とでもなるだろうか。反対側からの言いかたとして、「おなじに思えます」という言いかたも成立する。




◆ book299 『英語の感覚・日本語の感覚 <ことばの意味>のしくみ』 (2006 )
池上 嘉彦(いけがみ よしひこ、1934年2月6日 - )は、日本の言語学者、東京大学教養学部名誉教授、昭和女子大学大学院特任教授。専門は記号論・意味論・詩学。
・ 強い主張と 弱い主張

経験の直接性ということは決して捉えやすいことには思えないし、現にそのとおりである。またそのように微妙なものであるかこそ、従来、<意味>の違いとしては問題にされなかったのであろう。しかし、違いがあることはたしかなようであるし、しかもその違い方は表現の上で同様の構文上の区別ができるものの間では首尾一貫して現れてくるのである。


経験の直接性ということがもっとまともに関係していることがよくわかる例として、次のものを比較してみよう。
(9)
a) I find the chair comfortable.
b) I find the chair to be comfortable.
c) I find that the chair is comfortable.
どの文章も椅子の座り心地をのよさについて述べているわけであるが、 (9a) はもっとも直接的な体験に基づいて座り心地がよいと言っているという印象を与える表現――たとえば、今まさに椅子に座ってその座り心地を試しているという状況で発した表現――という感じがする。

それに対して、(9c) は、判断の根拠がもっとも間接的であるような場合、たとえば座り心地のよさを測定する何らかのテストを椅子に施してみて、その結果の数値を見ながら座り心地のよいものと判定しているといったような感じである。 (9b) のような言い方は、中間的な位置を占める。

(9) の例は直接的な体験ということが文字どおりに妥当するわかりやすい場合と言えようが、コンテクストによって直接的な体験と言っているものも微妙にニュアンスが変わる。たとえば直接的な経験に基づく場合というのは、当事者がもっとも確信をもって主張できるということと結びつく。

たとえば、次の(11)を参照。
(11)
a) She asked him to leave
c) She asked that he leave.
どちらも彼女が彼に立ち去るよう求めたということであるが、a) のほうが彼女にそれをより強い形で行ったという意味合いをもつ。a) は典型的には彼女が彼に面と向かって自らそれを直接求めたという感じである。一方、 c) は彼女がたとえば誰か第三者を介して自の意思を伝えるというように間接的に要請を行ったという場合をも許容する。関与の仕方が強いということも、結局は関与の仕方の直接性ということから出てきているわけである。

同様の構文と意味の差が次に挙げる tell という動詞の場合は、動詞自体の意味の変化ということとも結びついていて興味深い。
(12)
a) She told him to leave.
c) She told him that he should leave.
(12) は (11) と平行するが、 (12) では弱い介入という意味と結びつく c) のほうの tell は<告げる>、<伝える>という意味でよいが、強い介入という意味と結びつく a) のほうの tell は<命令する>という意味になっている。

・ 「表現の形式」 と 「表現内容」の平行性

このような意味の差はたいへん微妙で捉えにくいようなものに思えるかもしれない。しかし、大切なことは、このような場合すべてを通して、それぞれの構文の<形式>とそのそれぞれと結びついている<意味>との間には密接な対応が認められるということである。最初に挙げた(8)の例で考えてみよう。
(8)
a) I believe John honest.
b) I believe that John is honest.
構文の<形式>の上での重要な違いは、評価の対象となっている人物としてのジョンは、 a) では<目的格>で、 c) では<主格>で表示されているということである。<目的格>であるということは、ジョンが信じるというという行為の向けられた対象として私の支配下に入っているという形で捉えられることを意味する。

これに対し、 c) ではジョンは<主格>として表示され、<ジョンは正直である>という形が1つのまとまりを作っていて、 a) のようにジョンだけが取り出されて直接私の信じるという行為の対象とされているわけではない。 C) では、私の信じるという行為を通じてのジョンとのかかわり方はずっと間接的になっている。

つまり、<意味>の上での私とジョンとのかかわり方と構文の<形式>の上での私とジョンを表す語のかかわり方とが平行しているのである。

(8)について述べたことは、他の例についてもあてはまる。関与が直接的であるという意味合いでは動詞が<目的格>をとる構文が選ばれ、一方関与が間接的であるという意味合いでは動詞が<that 節>をとる構文が選ばれ、したがって前者で<目的格>となっているものが後者では<主格>で表される。このように、意味の差が表現の形式の差と平行するということも、実は認められる意味の差が偶然ではなく、十分いわれのあるものであることを示しているのである。

・ 関節目的語のニュアンス
(16)
a) John showed Mary a photo.
b) John showed a photo to Mary.
この2つの文の<意味>が異なると言われるのはかなりショックかもしれないが、たしかに異なりうるのである。

(16) の a) と b) の意味の違いは、具体的にはたとえば次のような形で出てくる。

今、ジョンとメアリが同じ部屋で少し離れてそれぞれ別の事をしているとする。ジョンがしているのは写真の整理である。そのうちにジョンが1枚興味のありそうな写真を見つけて、メアリにこれを見てごらんといういうようなつもりで差し出す。

その際、1つの可能性は、別の仕事をしていたメアリがそれに気づいて振り向き、差し出された写真を見るということである。

しかし、もうひとつの可能性として、メアリは自分のほうの仕事に夢中になっているとか、あるいはもしかしたらジョンの知らないうちに居眠りをはじめていて、写真を差し出されているのに気づかないということもある。

この2つの可能な場合に関して、 a) の表現は前者に、 b) の表現は後者に、それぞれ用いられる傾向があるというのである。

言い換えれば、あるものを<示す> (show) という行為に対して、そのものを<見る> (see) という反応が出るかどうかということに関して、出る場合には<間接目的語>+<直接目的語>型の表現、出ない場合には<直接目的語>+<to-前置詞句>の表現が対応す傾向があるということである。

したがって、たとえば「ジョンはメアリーに絵を示したが、彼女は眠っていたので、彼女はそれを参照してくださいdid'nt。」と言うのはよいが、この前半の部分を「ジョンはメアリーを示した絵が、.... " しかし

・ give 構文と provide 構文

give と provide とはもともとどうのように意味が違うのであろうか。<ジョンがビルにいくらかの食物を提供した>という出来事を give と provide を使って表すとすると、次のような表現がえられる。
(28)
a) John gave some food to Bill.
b) John provided Bill with some food.
両者の意味合いの違いを知るには、 give に伴う to、 provide に伴う with という前置詞の違いに注目するとよい。

give の構文の基底にあるのは、"Some food WENT TO Bill." という構図であって、こういう事態を伴った<行為>としての授与に焦点がある。

一方、 provide の構文の基底にあるのは "Bill WAS WITH some food" という構図であって、こういう事態に至ったという授与の<結果>に焦点がある。

present という動詞は、この2つの構文ができる。
(29)
a) John presented a bunch of flowers to Mary.
b) John presented Mary with a bunch of flowers.
どちらもジョンからメアリへの花束の贈呈について言っているが、意味合いの違いは (28) の場合はと同様である。 a) 型は贈ったという<行為>自体の方に、 b) 型はメアリは花束を有するという<結果>になったということのほうに、それぞれ重点があるわけである。

意味の重点が<行為>そのものにあれば、<結果>がどうかが二の次になるのは自然であるし、<結果>のほうに重点がある場合が全体的な影響という場合に対応するのも不自然ではない。

・ 接続詞 that の意味合い

節の内容がすでに話題として登場しているようなものであれば、節は接続詞 that を伴い、初めてもちだされるようなことであれば、 that を伴わない形が選ばれるというのである。


たとえば、次のような場合を想像すればよいであろう。今、ある部屋にジョンとメアリがいる。天気がこれからどうなるかということが話題になって、ジョンがラジオの天気予報を聞いてくると言って別の部屋へ行く。そして、聞いたあと、部屋に戻ってきてメアリにそのことを報告する――こういう状況設定であったら、ジョンの用いる言い方は that を伴った言い方になるであろう。

それに対し、今度はメアリが1人でいる部屋にジョンが入ってきて、たまたま別の部屋で自分が聞いた天気予報のことに言及してメアリに話しかける――こういう状況設定であったら、ジョンは that を含まないほうの表現を使うであろう、というのである。

・ 接続詞 that と 定冠詞 the の働き

内容を表す名詞節を導く that はあってもなくてもよいものである、と教えられ、そう信じてきた者にとっては、使い分けがあることからしてたいへんな驚きであろうし、その上でさらに、どうして前述のような違いが、 that があるかないかということと使われる状況の間にあるのかということが、不思議に思われるであろう。実はこの後者の点も、<形式>と<意味>の対応という観点から説明が出来るのである。

つまり、この場合、名詞節の内容が話題として<既出>であれば that をとり、<新出>であれば that をとらないということである。

こう言うと、すぐ気がつくのは、名詞節の内容が話題として<既出>であればその名詞句は the をとり、<新出>であれば a (あるいは、複数の場合なら、ゼロ)を伴うという関係と著しく平行しているということである。

接続詞の that と定冠詞の the は、いずれももともと指示代名詞の that に由来するもので、起源は同じである。つまり、節を導く接続詞の that は句を導く定冠詞の the と同じ働きをしているというわけである。このように<意味>の差が表現の<形式>の差と平行しているということも、想定される<意味>の差が決して偶然ではないことを示している。

・ 丁寧さの原則 ―― 対人関係の調節

適切な対人関係を作り出し、維持していくために、私たちはどのように振舞わなくてはならないか――このような点についての了解は、人間の社会ならば、どこでも、何らかの形で存在しているはずである。エチケットとか礼儀作法と言われるものは、そのような了解であると考えればよい。相手に安心と信頼の気持ちを抱かせ、快適な共存の場を生み出す――そのような目的のために、私たちはことば使いをも含めて、礼儀正しく、丁寧に (politely) 振舞う事を期待されている。そのような振舞い方の指針として「丁寧さの原則」 (politeness principle) といったものを考えてみることができるわけである。

そのような試みの1つとして、ここではイギリスの英語学者、リーチ (G. N. Leech) によるものに触れておくことにする。


見てわかるとおり、左右隣り合わせに並ぶものがそれぞれ対になって、3組の原則が提示されているわけである。

第1の組は<気遣い> (tact) と<気前よさ> (generosity) にかかわるもので、他人に対しては負担を最小に、利益を最大にすること、逆に自分に対しては、利益を最小に、負担を最大にするというのが礼儀上正しい振る舞いになるということである。
(33)
a) Give me your money.
b) Have another sandwich. (benefit → polite)
金銭を要求するのは相手に<負担>を強いるわけだから礼儀作法にもとり、一方、(たとえば食事の折に)サンドイッチを勧めるのは相手の<利益>になることであるから、礼儀に適う。これには、さらにどういう言い廻しを用いるかが連動してくる。(34) の a) 、b) は上の(33)の a)、 B) に対応する<間接的>な(つまり、遠回しの)表現である。
(34)
a) Could you please give me some of your money?
b) Would you mind having another sandwich?
相手の<負担>を求める場合は、(34a) のように間接的な言い方で接すると、(33a) のような直接的な言い方で接するより礼儀に適う。

一方、相手の<利益>になることを勧めるのに、 (43b) のように間接的な言い方で接すると、 (33b) のように直接的な言い方で接する場合と比べると、礼儀に適う振舞い方にならない。この (34b) は、どう振舞うのが礼儀正しいかということに関して文化的な差のあることを示している。日本では食事の席で食物を勧める場合、直接的な言い方で言うのは必ずしも礼儀正しい振舞い方にはならない。

第2の組は、<賞賛> (approbation) と<謙遜> (modesty) にかかわるもので、他人に対しては非難を最小に、賞賛を最大にすること、逆に自分に対しては、非難を最大に、賞賛を最小にするのが礼儀正しい振る舞いになるというのである。したがって、次の (35a) と (36a) は礼儀に適う言い方、 (35b) と (36b) は礼儀にもとるということになる。
(35)
a) How pretty you are!
b) How pretty I am! (praise of self → impolite)
(36)
a) How stupid of me!
b) How stupid of you!
第3の組は、<同意> (agreement) と<共感> (sympathy) に関するもので、他人と自分の間で不合意を最小に抑え、共感を最大にする、あるいは、合意を最大にし、敵意を最小にすることが礼儀正しい振舞い方になるということである。したがって、次の (37a) と (38a) 、  (39a)  と (40b) は礼儀に適い、 (37b) と (38b) 、 (39b) と (40a) は適わない。
(37)
a) You are entirely right.
b) You are not entirely right.
(38)
a) You are not entirely wrong.
b) You are entirely wrong.
(39)
a) I am pleased to hear that you succeeded.
b) I am sorry to hear that you succeeded.
(40)
a) I am pleased to hear that you failed.
b) I am sorry to hear that you failed.
・ 言語によって異なる 「好まれる言い回し」

ある事態の把握に際して話し手がいくつかの可能な選択肢のうちのどれをもっともふつうに選ぶかということになると、異なる言語の話し手の間で選択の好みが違うと言うことがしばしば起こる。次の(3) と (4) では、同じ状況で日本語の話し手は (a) の表現、英語の話し手は (b) の表現をするが、 a) と b) とを較べてみれば明らかなように、同じ<コト>が違ったやり方で捉えられている。

(3) [ どこからか不快な臭いがただよってきて ]
    a) この嫌な臭いは何だろう。
    b) What is that disgusting smell?
(4) [ ある戦死者のことについて ]
    a) 彼は戦争で死んだ
    b) He was killed in the war.


英語の話し手は、日本語に直訳してみると、 (3) では「あの嫌な臭いは何だろう」、 (4) では「彼は戦争で殺された」といった言い方をしているわけであるが、このような表現の仕方は日本語の話し手にとっては、想定されている内容を伝える表現としてはとても<自然>とは思えない。

逆に英語の話し手は、それぞれの場合に "what is this disgusting smell?" とか、 "He died in the war." と言うとしたら、意味は分かるけども何かそぐわない表現という印象を持つであろう。

どちらも同じ<コト>について言っている表現であっても、話す言語が違うと、それぞれの言語の話し手が好んで採る表現の仕方は必ずしも一致しないということである。

・ コミュニケーションのための言語へ

日本語と較べてみると、英語のような言語はダイアローグの言語として期待される特徴をはるかに着実に具備してしまっているという印象を受ける。ダイアローグ(つまり、コミュニケーションのためのことばのやりとり)であれば、話し手と聞き手は相互に情報交換を繰り返す<話す主体>として対等の存在である。<自己>が<他者>なる相手を見るまなざしは、<他者>なる相手が<自己>を見るまなざしと対等であり、そこでは<他者>なる相手への配慮は欠かすことのできない要件となる。

日本語の話し手なら、ごく自然のように「わたしとあなた」と言うところを英語の話し手は you and I と言う。あるいは、相手に呼ばれて日本語の話し手が「いま、行くよ/わ」と答えるところに英語の話し手は "Coming" と答える――この種のさりげない言い回しの違いにも、<自己>と<他者>の捉え方の上での感覚の違いを読み取ることは可能であろう。

もっぱら<自己>の想いを述べる<主観的>な、そして<身体性>に密着していた言語が、<他者>との間のコミュニケーションのための<間主観的>ないしは<客観的>な手段として、<身体性>とは乖離したものという性格を帯びていく進化の過程と平行して、言語の話し手の側での<自己の他者化>の傾向も強化されていったのではなかろうか。

・ <話し手責任>と<聞き手責任>

たいへん興味深いことに、アメリカの日本語学者として著名であったハインズ (John Hinds) は、 "Reader vs. Writer Responsibility: A New Typogy" (1987) と題した論文でこの点について論じている。

ハインズは諸言語を類型に分けてみた場合、コミュニケーションの成功に関して、発信側の話し手(あるいは、書き手)のほうに責任があるとする言語と、受信側の聞き手(あるいは読み手)のほうに責任があるとする言語があるという。(言い換えれば、逆にコミュニケーションが首尾よく行かなかった場合、話し手<あるいは、書き手>のほうの提示の仕方が十分でなかったからだとする言語と、聞き手<あるいは、読み手>のほうが理解しようとする努力が十分でなかったからだとする言語があるということである。)そして、ハインズは英語は前者の類型に属する言語、それに対して、日本語は後者の類型に属する言語であると考える。

日本語話者どうしでの日常的なレベルでの会話が欧米系の言語の話し手によって観察されるときに、ほとんど決まったように指摘されるのが<相槌>と呼ばれる振舞いである。日本語話者自身のほうは気づいていないようでも、傍から観察していると、頻繁に(ときには「ウン」といった短い発声を伴って)首を縦に振る身振りがなされることがよほど気になるらしいし、ときにはそれが相手の言ったことに対する同意の表明と受け取られ、誤解を生む事すらあるようである。

たしかに欧米系の話者であれば、聞き手の振る舞いはじっと相手の目ないし顔を見つめて聞き入っているというのがふつうであり、よほど相手のいう事への同意を積極的に表明したいのでない限り、大きくうなずくというような反応はしない。

日本語話者にとっての相槌は、必ずしも積極的な同意を意味しているわけではない。むしろ、基本的にはそれは相手の話に注意して聞き入っているという姿勢の表示――つまり<聞き手責任>を果たしているということの表示――であり、聞き手として文化的に期待されるとおり、礼儀正しく振舞っているというだけのことであろう。<聞き手責任>的な振舞い方が文化的にも組み込まれているわけである。

ハインズも述べているように、<話し手責任>、<聞き手責任>といっても、ある言語の話者がどちらかとして一方的に特徴づけられるというのではなく、さまざまな程度でどちらかの類型のほうに傾斜するということである。


◆ book300 『英語の発想・日本語の発想』 (1992 )
外山 滋比古(とやま しげひこ、1923年11月3日 – )は、日本の英文学者、言語学者、評論家、エッセイスト。文学博士である。
・ ▽ と △

日本語はどちらかというと大事なことがあとの方へくるのに対して、英語は大体の方向づけをはじめではっきりとさせるようになっている。仮定の表現ならば、頭のところへ、 If をつける。途中でも「ならば」とやれば仮定にすることのできる日本語とはわけが違う。英語の疑問文は文頭ではっきりしている。否定のことばも、センテンスのうしろの方にあるということはない。 He is not poor. に I think がつくと、 I think he is not poor. ではなくて、 I don't think he is poor. となる。前者では not があとすぎると感じられるのであろう。否定のような重要なことばは、なるべく前へ出す。受け答えで、まず、 Yes 、 No を最初に示すのも同じ心理である。

日本語を後方重心型(△)のことばと呼ぶならば、英語は前方重心型(▽)の言語だと言ってよかろう。われわれが英語を読み、話し、聞くとき、この三角形が逆になっているという点をいつも心にとめている必要がある。英語を△型で話しても相手に通じにくい。話される英語をきくのにも、△型のことばのつもりでいると、もっとも大切なはじめのところをうっかりして読み落とし、あるいは、ききそこねるおそれがある。

・Yes か No か

英語の Yes 、 No は、問いには関わりなく、答えが肯定だったら、その先ぶれとして、 Yes 、否定であれば、 No をつける。

日本語では、そうではなく、ええ、いいえは問いに対する答えで、問いの中の考え方と違う答えの頭には、"いいえ"、同じときには "はい" をつける。

両者は答え方の原理が異なるのである。しいて言えば、英語の Yes 、 No には話者の論理と主体性がつよく出るのに対して、日本語の "はい" "いいえ" は問いとの関係、相手への配慮が優先しているように思われる。

・ Not のせり出し

日本語には、重要な要素、たとえば否定語はうしろの方へもっていく傾向があり、英語では逆に前へ出そうとする現象が見られる。日本人にとって、なんとなく、落ち着かない言い方があるのも事実で、その代表格が "not のせり出し" である。

(1) I think Mary won't leave until tomorrow. というのは、そのまま「メアリーは明日まで出発しないと思う」で、すんなり頭に入る。ところが口語の表現では、同じことを、 (2) I don't think Mary will leave until tomorrow. とするのが普通である。これを「メアリーは相玉で出発するとは思わない」とすると、日本語の感覚としてはひっかかる。「思わない」というけれども、実際には「思って」いるのである。意味の上で否定されているのは「出発する」という動詞であるのに、それを「思う」へ移して「思わない」とするのはおかしい。理屈からすれば、 not がどこにあっても、否定をあらわすことには変わりがない。「メアリーは明日まで出発しないと思う」としようと、「メアリーは明日まで出発するとは思わない」としようと、論理的には同じである。ただ、 not を前へ出すことによって、否定であることをすこしでも早く伝えようとする心理がうかがわれる。英語が大事なことをなるべく前へもっていこうとする一般的な趨勢によって、この "notのせり出し" もおこっていると見ることができる。

(3) I don't think it will rain. の方が、 (4) I think it will not rain. よりも普通であるが、 (3) の not は think を否定しているのではなく、否定語として、全体つまり、 it will rain にかかっていると考えるべきであろう。それが think を否定しているように見えて、日本人には奇異に感じられる。

こういう "not のせり出し" 現象はいかなる構文においても見られるものではなく、主節の動詞が、先の諸例における think がそれに当たるが、限られた動詞のときだけにおこるのである。

どういう動詞かというと、まず思考や推量をあらわす、 believe 、 expect 、 imagine 、 suppose 、 suspect 、 think などの動詞群。ついで、 choose 、 intend 、want 、 wish などのように意図や願望をあらわす動詞群。さらに、「らしさ」を示す appear 、 seem 、 be likely などの動詞類である。これらの動詞が使われると、あとの方の否定語が前に出てきて、いかにも、これらの動詞が打ち消されているような感じを与える分ができる。日本語でも「AがBであるとは思えない」ということはあるが、「AはBではないと思う」の方が自然である。これが "思う" でなく、「考える」だとすると、「AがBであるとは考えない」は、どちらかというと翻訳口調であって、「AはBでないと考える」の方が自然であろう。

この "not" のせり出しがなく、たとえば、 (5) I think that your time will not be misspent. というような文では "not" が強調されて、相手に対する特別な感情をあらわすことになる。ということは、ここに否定がおかれるのは普通ではない、ということを暗示する。

・ 名詞的

英語は日本語に比べて名詞の比重が大きいように思われる。言いかえると、日本語では、その分だけ動詞が重要な働きをしていることになる。どこの国のことばでも名詞と動詞が基本であるのに変わりはないが、言語によってその役割に違いがある。

「あの人は英語を流暢にしゃべる」というのを中学生は、
He speak English very fluently.
とするだろう。 fluently が使えなければ well を代用する。これでいけないというわけではない。文法的にも間違いはないが、 speak ... fluently とするのは動詞中心の英語にひっぱられたもので、これは名詞にして、
He is a fluent speaker of English.
とする方が英語らしく落ち着くのである。 speaker は one who speaks ということで、何を話すかといえば English だから、その前に of を入れる。この of は目的を示す前置詞である。名詞 speaker の中に動詞の要素が含まれているのはこれでもはっきりしている。名詞がそうであれば、動詞はただのつなぎの be 動詞でいいわけだ。

・ 固有名詞

東京大学のことを The University of Tokyo と書かれると、東京にある大学、東京の大学、といったことになりはしないかと不安になる。実は、 The Tokyo University にむしろ、「東京 "の" 大学」のニュアンスがともないやすい。

・ Would you please...?

英語でも相手の立場に立てば、向こうへ行くのは、 I will go to you as soon as possible. ではなく、 I will come to you as soon as possible. でなくてはいけない。丁寧にしようと思えば、動詞が変わるのは日本語だけではないのである。

日本語に堪能なあるイギリス人が、日本語で話しているときには金銭のことがうまく言えない。ことばが出てこない、と書いている。英語なら、仕事の報酬などいくらくれるのかをきくのはなんでもないことだが、日本語だと、そういうことを口にしにくいというのだ。ひとつには give に当る丁寧語が日本語に無いからで、困るのは外国人だけではない。日本人も困ったあげくに新しい言い方をつくり出した。

「ネコにえさをあげる」 「赤ちゃんにミルクをあげる」 というようなのが、すこしも珍しくなくなったが、こういう言い方が生まれたのはそう古いことではなく、30年前までははっきり誤りとされていた。いまでも、赤ちゃんにミルクをあげるのはともかく、ネコにまで「あげ」なくてもいいと、この語法に否定的な人がいないわけではないが、若い世代の女性はほとんど、「やる」というのこそ乱暴である、と感じている。

「あげる」は「やる」の謙譲語で、自分を低める言い方だが、これを口にしている人たちは、ネコに対して自分をへりくだる必要があると思っているわけではない。「やる」というむき出しのことばを避けた丁寧な表現が好ましいのである。つまり、「あげる」は謙譲語ではなくなって、丁寧語になったと見るべきであろう。「やる」の謙譲語が使いたいのなら「さしあげる」とすればいい。

英語には敬語がないと思い込んでいる人がいるが、とんでもない誤解である。英語の敬語 (honorific) は、一般に多く、呼びかけにあらわれる。目上の人には sir などがつく。名前に Mr. /Miss. (Ms.) を冠するのもこれに属する。第三人称の he 、 she も、本人のきこえるところで使っては失礼になるから、 that gentleman 、 that young lady などとしなくてはならない。これらは日本語の敬語の、尊敬語に相当するものであるとしてよい。

英語では敬語の副詞が多い。 Will you please close the window? /Will you kindly show me the way to the station? /Graciously accept this gift. /I humbly propose...that another shall be erected. /I cordially sympathize with you. これらのうち、 cordially 、 humbly は、 I 、 we について用いられ、したがって、さきの謙譲語に当る。他方の kindly 、 graciously は you について使われるから、尊敬語に近いものである。それに対して please は、いずれにも用いられて 丁寧語に近いものである。

こうしてみると、英語にもかなりはっきり敬語のあることがわかる。ただ、日本語の敬語は動詞中心的であるのに対して、英語は動詞よりも副詞が主になった表現が発達しているのがわかる。もっとも動詞の部分の変化によって敬語をあらわすこともないわけではなく、この場合、一般的には間接的な言い方ほど丁寧になる。 Open the door. はつよい言い方で、普通の頼み方は Please open the door. である。もうすこし丁寧な依頼は、仮定法の疑問文の形にして Would you please open the door? さらに丁寧な言い方は Would you mind opening the door? である。

変わるのは英語をとりまく副詞的な部分だということで、英語の敬語は adverbial である。

・ ことばの調子

英語のリズムは音の強弱、音の反復、音の位置によっているのに対して、日本語のリズムは、音節の数の組み合わせによっておこり、両者の性格はまったく異なっている。英語は話すときにも、音の強弱が重要であるのはそのためであり、日本語を話すときには、語の音の性質ではなく、音節の数と、どこで切れ目をつくるが、間が重要になってくるのも、この相違にかかわるものと考えられる。

・ Seven-ish という時間

'seven-ish' のような表現については、最近出た Michael L. Sherard, Tacit Assumpions (Macmillan Language House) にくわしく説明されている。それによると、 'seven-ish' は 'around seven' とはちがって、社交的なばあいのみに用いられる。 'around seven' なら7時前後、ということで、7時より前でもいいが、 'seven-ish' は、7時前はもちろん、7時きっかりでもいけない。 'after sevev, but before eight' というのに当る。

なぜ7時すぎでなくてはならないのか。もっとも大きな理由は料理を作っている奥さんの都合であるらしい。お客になるべくホットな食べものを出したいと思えば、早く準備しておくわけにはいかない。ぎりぎりまでキッチンにいる。そんなときに、客があらわれたらどうしていいかわからなくなる。7時過ぎという案内がしてあれば、7時ごろに料理ができる。そこで奥さんは着替えをしたり、用をたしたりして、さあ、よろしいとなるのが7時15分か20分くらいとなる。それを心得ないで、7時前にのこのこやってくるようではもう二度と同じ家のパーティに招いてもらえない、というからおそろしい。

・ No のポジション

この本(『「NO」と言える日本』)の中で、盛田昭夫氏が、日本語と英語でコミュニケーションの形が違うことに言及しているところが注目される。

アメリカ人にとって日本人が何を言っているのかわからないと言われるのは、日英語の構造の違いによるのだ、という指摘である。すこし長くなるが、引用してみる。

「私は本にも書いていますが、日本人が漢文を読むときにはかえり点をつけていますが、中国の人はまっすぐ読めばわかるわけです。英語にしてもかえり点なしにそのまま読むわけです。[ところが日本人は英語をひっくりかえって読む] つまり彼らとは思考の過程が違うわけです。だからいくらいい通訳を使っても日本人の思考過程の順番で言うとなかなかわからない」

ことばの並び方が違えば思考過程も違うというのをかえり点というところでのべるあたり、さすがに実業家である。盛田氏はこれに続けて、こうのべる。

「そういう点で、メッセージのデリバリーということに関して日本の思考過程というのは残念ながらマイノリティーですから、大多数の西洋人とコミュニケーションするには、相手のわかるような順番で物を言ってあげないと、何を言っているかわからない。私はレイシャル・プロブレム以前にコミュニケーションの方法という点において、日本は非常なディスアドバンテージ(不利)があることを知っておく必要があると思うのです」

英語さえ話せばこちらの言い分はわかってもらえる。通訳があればなんとか意志は通じる。日本人はそう考えてきた。本当の障害は言語そのものではなくて、それによってあらわされる思考過程の順序であるという点に着目した人はこれまであまりいなかったのではないか。盛田氏に多年にわたる外国人との交渉の経験があったからこそだろう。ことばに関心をもっている人にとってつよい刺激を与える発言である。

前にもふれたが、英語と日本語ではパラグラフの構造が逆の形をとる。

日本語はあまり重要でない、周辺的な部分から話を始める。終りにいくにしたがって大切なことが出てくるが、最重要な点が言外に暗示されるにとどまることもある。△型(後方重心型)で、私はこれをアイランド・フォームの構造と呼んでいる。

他方の英語をはじめとするヨーロッパ言語では、大切なことから出していく。終りの方は補足である。▽型(先方重心型)構造で、コンティネンタル・フォームと呼ぶことができる。

盛田氏の「思考過程の違い」は、この△型と▽型のくい違いということになる。両者は正反対である。このことを考えないと「いくら通訳を使っても日本人の思考過程の順番で言うとなかなかわからない」ことになる。

△型のコミュニケーションになれている日本人は、冒頭のところで No とは言えない。心やさしく、 Yes ととられかねないことを口にしてしまう。そしてだんだん No に近づいていくが、▽型の思考をする人にとっては、これが混乱をおこす。